終わりよければいいのは終わりだけ説

 

僕はコンスタントに何かを続けるということがべらぼうに下手くそです。飽き性ってのもあるかもだけど、あれやりたい!よっしゃ後でやるぞ→Youtubeくそわろたてな感じでいつの間にかモチベーションが消えることが多々あります。僕に限ったことでもないしそういう類の話は誰にでも当てはまる。後で食器洗おう、これ終わったら宿題やろう、期限までに終わらせればいっか、など。今回はそういうお話になる気がする。

 

みんな苦しいから、社会はこういうもの、同調圧力。現実を見ろ、言うことを聞け、当たり前。

なぜなのか。

 

おおよそ健全な価値観を持っているいわば一般人たちはこういうものに対して抵抗感を持っている、と僕は考えてます。そしてそれらの人達は自分の気持ちを飲み込み、緩やかな自殺にも近い順応という形をとって社会に、人間関係に、日々に溶け込んでいく。その順応を辞めて自分で世界を創り出す!みたいな人はそういったコミュニティから抜け出し、自分なりに歩める道を歩いて行く。住む場所を変えたり、人との関わりを変えたり、生きる方法を変えたり。

んでもって、抵抗感を持ちながら逆風をモロに受け、かつ理想と現実とのギャップに苦しみ、ボロボロになってもそれを捨てきれずに果てていく人たちは「社会不適合者」とよく言われますね。僕とは無縁な言葉だと思ってたけど、大学中退してもなお実家には帰らず職にも就かず、のうのうとクソザコフリーターを満喫している者を社会不適合者以外になんと形容したらいいのでしょうか。マンダム。

 

どんな生き方が正解で何が間違いだとか、正義と悪とかそういった白黒の話をしたいわけではないのです。誰がこんな世の中にした。

後が無い状態、それこそ戦時中とか超絶景気が悪いとかならまだわかる。やらなくちゃ死だもの。でも今はそんなことないじゃないですか。クールジャパンだとかオリンピックとか色々余裕あるじゃないですか、世界的には。多分(いい顔したいだけかもしれないけど)。モノが豊かになったのに心はいつになったら豊かになるの?すぐに正解やいい結果を求めたりする割にはあまり考えさせないしあらかじめ用意された答えじゃなければ基本的に不正解。デキレースで得るものってそんなにあるのかな、わかんない

心が豊かな人達が豊かでなくなった人達に同じレベルに引きずり降ろされるのが本当に嫌。日本は基本的に好きだけど洗脳じみてすらいる集団意識には激しい嫌悪感を抱くときがあります。没個性とは本当によく言ったものよ

 

ブログのいいところというのは、思考を文字にしなきゃいけないので嫌でもアウトプットをするところ。意識高い系()みたいだけどこれって結構重要で、外に出すことで大体の整理はつく、というかイメージや考えを文字にするんだから整理しないと言語が成り立たなくなるわけで、もちろんTwitterとかなんでもいいわけです。とか言っておきながら執筆してる本人が文字にしたはいいものの何が言いたいのか、とか何が伝えたかったのか、整理された感が0なの説得力なさすぎて泣いてる。逆に考えると今は気持ちの整理が全くされていないと取ることもできますね、ほらやっぱりブログってすごい!!!

口調とかの確認のために過去の記事さらっと読んだけどほぼ毎回「なんかまとまりつかないけど許してヒヤシンス♡」みたいなこと書いてて笑うわ、書いてるうちに色々整えんかいと思いつつ、、

 

オチもまとまりもないけど許してくんさい♡